伊藤祐靖
香港活動家らが尖閣諸島の魚釣島に上陸した2日後、私は石垣島に向かうため羽田空港にいた。政府は奴等の処分を決定していなかったが、無罪放免としやがった時の腹は決まっていた。
私の乗り込む漁船は、18日の20時頃に石垣島を出港する。尖閣諸島周辺海域は高気圧圏内でべた凪なので、夜明け前には到着する。そこで、こっそり海に入って50メートルも水中移動すれば、呼吸を確保するために浮上した私を発見できる人がいるわけはない。そもそも、漆黒の海をノーライトで沈んでいく奴が...いるなんて想像したことのない人たちがほとんどだろう。後は、黒潮に乗って水面移動すれば魚釣島にたどり着くことはできる。ただ、魚釣島に香港活動家が数名残っている可能性があると考えていた。予定上陸ポイントは、ビーチではなく岩盤である。だから、波とうねりが岩盤へ叩きつける部分を通過する時が最も脆弱であり、しかしそこさえ通過してしまえば、一気に有利となる。潮騒で音が使えない世界において相手の存在を探る手段は、視覚と嗅覚、そして体温によるわずかな気温の上昇を察知する能力しかないからだ。海からやってきた私は、潮の匂いしかしないし、体表面温度は気温より低い。そうなれば視覚の勝負となる。彼らの夜間視力が私より勝っている可能性はまずない。裸眼なら無論のこと、暗視装置を使おうが、赤外線を使おうが(説明は割愛する)彼らが闇夜の中で私を先に発見することはできない。私は、必ず彼らを先に見つける。見つけたら、彼らをかわすか、潰すかした後に、東西に延びる尾根を目指してひたすら駆け上がればいい。
まだ、気分が盛り上がっていないので作戦は概要だけにとどめ、細部まではまだ考えなかった。だから、道具への細かい細工もしなかった。フィン、ナイフ3本、マシェット(山刀)、薄いウエットスーツ、バックパック、パラシュートコード150フィート、タクティカルライト2本は持って行き、残りは石垣島で調達することだけ決めた。
私が東京から那覇経由で石垣島に移動していた17日に政府は、奴等を無罪放免とした。私の中には、喜びに近い感覚で高揚している自分と高揚している自分を他人事のように客観視している二人がいた。上陸ポイント、移動ルートは概ね決めていたが、国旗を掲げるポイントについては、行ってみてその場で決めるしかなかった。国土地理院の地図(1/25000)と公表されている衛星写真ではそこまでが限界だった。
石垣島での最初の夜を迎え、豆腐よう(沖縄の珍味)で泡盛を飲んでいると、ようやく気分が盛り上がってきて、国旗を掲げるのに使う6ミリ程度のロープ、装備品にカモフラージュ塗装するためのスプレー等々、翌日調達すべき物のリストアップをする気になった。
つづく(まだまだ)
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