1万キロ現地調査第25回 同行
東京・印刷関係
特定失踪者問題調査会の1万キロ現地調査に支援者として予備役ブルーリボンの会が同行。
(1)現地調査により個々の事件及び北朝鮮による拉致・工作活動への認識を深める。
(2)広報啓発活動を通し今後の工作活動を抑止する。
(3)現地で特定失踪者家族から北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」のメッセージを収録する。
行動記録
■2015年1月29日0900時 東京都文京区「特定失踪者問題調査会」前集合
【特定失踪者問題調査会前】
この日の行動予定など説明があった。ちょうどイスラム国に日本人が拉致されていることも重なってか大きなカメラを持ったマスコミクルーが数社来ている。日本人が拉致されたという本質は一緒である。北朝鮮に拉致され、生きている方もいるだろし抵抗し殺されてしまった方もいるだろう。
【千代田区猿楽町】
小林榮さんが勤務していたとされる印刷会社跡地にて新たに判明した事項について確認。後述矛盾点について議論。
小林 榮 (こばやし さかえ)さんは1966(昭和41)年8月21日、この東京都千代田区猿楽町から失踪。いなくなる数日前から体調を崩して仕事を休み、会社寮から「医者に行く」と同僚に言い残し、外出したまま帰宅せず、行方不明となった。
勝野幹事が昭和38年の地図を用意してきており現在の地形と照らし合わせたが、街並は小林さん失踪当時と大きく様変わりしている。
また事前調査の課程で、2012年頃、警視庁が小林榮さんの厚生年金記録を調べた結果、就業先と就業期間に不可解な点が浮上していたことが判明した。
警視庁によれば、小林さんの年金記録は失踪の1年前・1965(昭和40)年8月には猿楽町の印刷会社を退職し、失踪年の1966(昭和41)年8月は、婦人服製作の会社に勤務していたことになっているというものである。
しかし、実際には失踪年・1966(昭和41)年8月下旬に印刷会社側から「8月21日に社内で姿を見たのを最後に所在不明なっている」旨の手紙が届き、その後兄弟2名が印刷会社に榮さんの荷物を引き取りに行った事実もあり、不可解な状況となっている。
過去、年金記録の記録ミスなどが社会問題となった経緯があるが、別の勤務先までも間違って記載されるとは考えにくく、矛盾の意味するものが何なのか、更なる調査が求められる結果となっている。
【東京都墨田区立花6丁目】
早坂勝男さんは1968(昭和43)年4月ごろ失踪。墨田区本所で同居していた友人から家族の元 に「ここ数ヶ月間、返ってきていない」旨の連絡があり、行方不明となっていることが判明した。
近くの河原にて説明を行う。左から早坂勝男さん弟の早坂胞吉さん、兄の早坂勇治さん、調査会常務理事で本会幹事の曽田英雄。
同(昭和43)年の元日、当時千葉県松戸市に居住していた兄勇次さん宅を訪れた際、同じく兄宅を訪れていた次兄に「自分は尾行されている」と話していた。また、以前に「大阪に行って印刷の勉強をしたい」旨の発言をしていたが、失踪後、大阪で就職した形跡は無かった。
墨田区本所2丁目およびその周辺にて地図と現場の地形を照らし合わせながら調査をする。早坂胞吉さん、勇次さん、曽田常務理事、荒木代表。インタビューを受ける早坂さん。
【東京都新宿区水道橋】
日高信夫さんが勤務していた付近の調査
失踪状況 : 1966(昭和41)年秋、勤務していた東京都新宿区の印刷会社を9月25日退職し、同月29日に大阪に向かったまま失踪、行方不明となったもので、実家には『大阪で新しい職場が決まった』と手紙を出しているが、大阪で就職したことは現時点で確認されていない。2006(平成18)年に脱北者H氏が日高さんに似た男性と平壌の病院で一緒にいたとの証言をしており、その証言が正確なため、拉致の可能性は高いものと思われる。
中塚 節子さんが勤務していた付近の調査
失踪年月日1963(昭和38)年 6月16日
会社側から家族が聞いた話では勤務終了後、「おやつを買いに行って来る」と言って、同僚の男性・Aさんと一緒に寮から出かけたまま行方不明となった。この時の服装は不明だが、「サンダル履きで小銭を持って出掛けた」とのこと。
会社側は色々探し回ったが、結局二人の行方は不明のままとなった。
中塚さんが失踪した1963(昭和38)年当時、印刷会社の周辺は一般住宅と共に印刷工場と出版関係の会社が混在する地域で、喫茶店や食堂、ストアーなども点在していたが、失踪から既に50年を経過した現在では当時の店舗があった位置はビル等に建て変り、当時立寄ったと思われる店舗を特定するのは困難である。
中塚さん、Aさん失踪の3年後となる1966(昭和41)年9月に失踪した日高信夫さんが勤務していた印刷会社は中塚さん、Aさんが勤務していた印刷会社とは町名こそ違うものの7?80mの距離しか離れておらず、ほぼ同地区に勤務先と居住していた社員寮があった。また日高さんが印刷会社に就職した昭和38年春には既に中塚さん、Aさんは同地区におり、同年6月中旬に二人が失踪するまでの約2ヶ月間は同地区に生活していたことが確認された。