荒谷卓
米国や中国といった近代以降につくられた国々は、現在の政治体制(以下『政体』)が時代の要請に対応できなくなるか、腐敗混乱の自浄能力がなくなれば、国内に革命的変化がおきて、その国の歴史は終わる。
これに対し、日本には、神代から連綿とつながる万世一系の天皇陛下を中心とする国体が存在し、国体を基軸にして、時代に応じた時々の政体が存在してきた。したがって、政体が崩壊しても、不変の国体に立ち返り、再び新たな政体をつくることで国家の歴史は継続していく。
日本の国体の理想は、神武天皇建国の詔にしめされた『八紘一宇』を実現することである。八紘とは、東西南北上下という空間と過去から未来という時間を表し、宇宙の誕生から現在を経て未来へと続く万物万象の壮大なる連帯を表す。一宇とは、一人ひとりが己の居場所を有し、お互いのためを思って共に暮らす、一つの屋根の下にある家族のことだ。つまり、時空と空間を超えて、全ての人々を分け隔てなく一つの家族的連帯でつなぐ『尊敬と慈しみ』『思いやり』とで結ばれた社会をつくるのが国体の大理念である。
時代に応じて国体の理想を具体化するべき政体が、時代に対応できず腐敗をきたし、役割を果たせないとなれば、政権は天皇陛下に帰し、天皇陛下の詔勅によって新たな政体がつくられる。このように、時の政体が変わっても、神代より不変の国体が存在し続ける、これが日本である。
鎌倉以来、室町、安土桃山、江戸と、およそ七百年の長きに及び武門による政体が続いた。しかし、徳川幕政は、欧米列強の軍事力と謀略による強圧的外交に対し、天皇陛下の勅命により授かった国体を護持すべき征夷大将軍として役目を果たせなくなる。ついには、十八代将軍徳川慶喜により天皇に大政を奉還することとなり、明治天皇を核心として新たな政体がつくられた。
明治政府は、神武天皇ご創業の国体精神に立ち返り、日本の大義を国際社会に広めることを期して、社会制度の大改革をなした。明治元年、明治天皇は、『五箇條の御誓文』を自ら天地神明にお誓いになり、これを国是として国民にお示しになった。御誓文にある『万機公論に決すべし』のごとく、広く深く議論を重ね、明治二十二年には皇室典範並びに大日本帝国憲法が制定され、ここに新たな政体が示された。その特徴は、天皇陛下の御親政であり、特に軍の大権にあっては、天皇陛下御自ら陸海軍を統帥するというものであった。また、大日本帝国憲法が発布される七年前、明治十五年、明治天皇から陸海軍の全ての兵に対し親しく『軍人勅諭』が発せられ、天皇陛下と軍人の関係が示されていた。
これによって、大日本帝国陸海軍軍人は、単に政体の長たる国務大臣が指揮統率し、政体を警衛するための軍ではなく、天皇陛下御自らが統帥し、神武天皇建国以来の国体を護持すべき皇軍としての地位を与えられたのである。
明治天皇の軍人に対する思し召しには特別のものがあり、明治二年、東京招魂社(後 に0國神社)を創建され、明治七年の臨時大祭(第二回合祀祭)の御祭文には、
御代のため、國のためと、明く正く武く雄々しき心以て戦い亡し事を、
甚く惜み痛ませ給ふ、故其さまを忘給はず其功を長へに伝え給はむ
また、数多くの御製に、大御心を拝することができる。
國のためたおれし人をきくたびに親の心ぞおもひやらるる
國のため心も身をもくだきつる人の功をたづねもらすな
靖国の社にいつく鏡こそ大和心の光なりけれ
帝国陸海軍の兵の強さの源はここにある。皇軍の兵士が、愛する妻子や孝行を尽くすべき両親を残してまで、雄々しく戦地に向かったのはなぜか。国益などという利益損得のために戦ったのではない。皇軍兵士は、悠久の国体史の中にその名が刻まれるという栄を明治天皇より授かったからである。その上で、天地自然の道を家族のように暮らす人々と共に生きるため、物欲個人主義の邪悪なる精神の穢れを正さんとして戦ったのだ。
明治以降の歴史を振り返るのならば、国体の目的に照らし合わせて誤りがあればそれを改め、正しきことを継承するのが日本人のあるべき姿である。少なくとも、命をとして、八紘一宇に殉じた英霊の真心に感謝するのが日本人としての努めであろう。
また、皇軍の戦いを反省するのならば、国体の大義に立って反省すべきである。戦後の物欲・個人主義の立場から非難する者の卑劣な態度は見苦しい。勝ったから正しい、負けたから愚かだとか、精神主義だとか、無駄死にだとか、これらは全て、日本人としての自尊心を金銭に変えた軽薄なる者の言い草である。
そもそも、我々戦後の日本人は、皇軍兵士の戦いぶりによって如何に恩恵を頂戴しているかを知らねばならぬ。
一つの例を挙げよう。平成七年から九年にかけて、現職自衛官として私は、プロイセン陸軍大学校の歴史と伝統を引き継ぐドイツ連邦軍指揮大学に留学した。その折、ドイツのテレビでは、頻繁に日本の神風特攻隊の映像が放映されていることに気がついた。そこに映る、飛行場から水杯を交わして飛び立つ前の神風特攻隊員達は、実に落ち着いて涼しく鎮まっていた。コックピットに乗り込み最後の挨拶をするときでさえ、「ちょっと出かけてくるぞ」とでも言いそうな、国家国民に対する慈愛に満ちた清らかな表情であった。
ドイツ人に、「なぜ神風特攻隊の映像が、こんなに頻繁に放映されるのか」と訪ねると、ドイツの人々が尊敬と畏怖の念を持って答えた。必死の特攻という激烈なる戦闘に向かうというのに静かに慈愛に満ちた清々しい態度、この行為と精神を当たり前のようにできる日本の兵士は近代欧州人には驚異であるだけでなく、神秘的だと。
指揮大学の学友でもある約四十カ国の留学生たちにも「神風特攻隊の映像を見たことはあるか」と質問したところ、多くの海外軍人は「当然だ」と言う。では、その所感はと聞くと、一様に「世の中にこんなに勇ましい軍人がいるということを神風の映像で知った」「日本軍がなぜあのように強かったかが神風の映像を見たときに判った」と答えた。アルバニアの大佐は「今日本は大人しくしているが、いざとなると、また特攻をするんだろ」と言う。また、リトアニアの国軍司令官は「ロシアや中国等の大国でも日本に単独では勝てなかった。米国も一国では勝てなかったはずだ」と述べた。他の軍人たちも「日本人は大人しそうに言えるが、恐ろしい存在だ」などと言う。
このとき、私はあらためて、皇軍兵士の壮絶なる戦いぶりによって、現在の日本は守られていることに涙して感謝した。この歴史的事実こそが、今なお実態としての日本の抑止力となっているのだ。と同時に、実証もしないまま、日米安保などの理論のみで抑止を語ることの愚かさが恥じた。
戦後、国体史の中で恥辱の時代として刻まれる期間が六十六年目となるが、日本人としての尊厳を捨て米国に依存する政体がいまなお継続している。幸い、この恥辱の政体も瀕死の体を成し、まもなく国体の理念に立ち返るときが来るであろう。何が正しくて何が正しくなかったかが、そのとき明らかにされる。
すでに、常識ある国民は、日本の安全保障は日米安保体制によって保たれているとう虚構に気がついている。それは、安保と防衛を完全に米国に依存している状態を正当化するための欺瞞に過ぎないのだ。国民が拉致され、領土が侵略され、主権が侵害されても、自らは何もせず米国にお願いするだけの政府。およそ政府としての責任要件を満たさないものを、あたかも正統な政府であるかのような啓蒙の呪縛を祓い清めるときは近い。
今や、米国の日本への関心は、冷戦間に稼がせた資産を、二国間及びTPP等多国間の枠組みで取りもどしつつ、次なる獲物である中国に投入させることぐらいだ。日英同盟がそうだったように、米国にとっての戦略的価値を失い資産移譲が完了した時点で同盟関係は解消される。にもかかわらず、いまだにそのようなものにすがろうとしているのが日本だ。そのみっともない有様が、昨年の尖閣沖衝突事案などによく表れることとなった。
さて、では日本が本来の自立した力を取り戻すためにはどうしたらいいだろうか。それは、六十年以上に亘る歴史の断絶を修復することだ。そして、日本が伝統的日本であり続けながら、国際世界で日本のアイデンティティを貫こうとした明治維新の精神に立ち返ることだろう。幸い、先に触れたように、戦後の長い時を経ても、靖国の神々の力は現実に世界中の人々の心に刻まれ、語り継がれている。先ずは、我々現代の日本人が、靖国の英霊の御心との連綿としたつながりを取り戻すことだ。我々が、靖国の英霊のように、世のため人のため全力を尽くす日本人に戻ることで、歴史と国際社会の中で、家族のような社会作りに力を尽くす、活力ある日本が蘇るだろう。
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