伊藤祐靖
一回だけギャンブルをすると決めた私は、ダブルチェーンノットで編んだパラシュートコードを首から腰へと巻きつけ、30度の崖を降り、そこから更に落ちる70度の崖に対して懸垂下降を開始した。あと50センチ降りれば旗の状態が確認できるところで、降下を止めた。 これ以上降りたら登ってこられない。真下を見ると300m下に海が見えた。ここは、東京タワーとほぼ同じ高さなのだ、いくら下が海だって落ちれば助からない。
「そうか、俺は、東京タワーのてっぺんにぶら下がってるのか~、そりゃ景色がいいわけだ。」
どうしても旗の状態が確認したかった。しかし、もう下がることはできない。どうしようもないので、目の前の70度の崖を蹴って崖からの距離を離せば視線の角度が変わるので旗が見えるんじゃないかと思って試したが、崖を蹴った瞬間に股間を握りしめられるような感じと、背骨と首の付け根ゾクッとするような恐怖を感じた。私は高所恐怖症ではないが、耐え難い恐怖を感じた。本能的な危機感だったのかもしれない。しかし、東京タワーのてっぺんのようなとこにぶら下がりながらも、まだ迷っていた。疲労と非日常的過ぎる環境で、脳のどこかが明らかに機能していない、かすかに本能だけが残った頭で考えていた。
「旗が絡まってるとしたら、こんなとこまで来た意味がない。確認するべきだ。
でも、これ以上降りたら落ちる・・・・・・・。
いや、落ちるかもしれない・・・・・・。
落ちると決まってるわけじゃない・・・・・・。
確認するべきだ。落ちれば、帰る必要がなくなる・・・・・・・・・・・・」
結構長い静寂の中で、考えはどんどん"確認すべき”、落ちてもいい。落ちればすべてのものから解放される・・・・・・。 に傾いていった。しかし、突然「一回だけと決めたんだ。帰る」と頭にひらめいた。
この“ひらめき”のおかげでこうして今、のん気にあの時のことを思い出しながら書くことができている。あの時ひらめいていなければ、そのまま行方不明になっていたであろう。
本屋に行けば、サバイバルに関する本がたくさん売っている。生き残るためには、技術だ、知識だ、根性だ、と言ってる人もいる。私は、生命の危機が目の前に訪れた時、それを回避できるか否かの大きな分かれ道は、生き続けることへの執着心を持ち続けられるかどうかだと思っている。生きていることがやたらと面倒に思い始めるタイミングを知り、その面倒という感情は芽生えた瞬間に爆発的に加速することを知り、その感情をかき消す術を知らないと、どんなに知識があっても、どんなすばらしい技術を持っていたとしても、それを使って生き延びようとする執着心が折れ、すべてが終わってしまう。
つづく(まだまだ)
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