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植村夫妻インタビュー

令和7年12月12日聴き取りまとめ

植村照光、光子夫妻。失踪:長女留美さん。平成7年3/26(日曜日)。当時23歳。)

失踪した平成7年は阪神大震災(失踪2か月前)とオウムサリン事件(失踪6日前)があった年である

失踪したのは朝6時か7時かはっきりしない、こちらも(ご夫妻のこと)寝ていた

留美さんには弟と妹がいる

留美さんは優しくて大人しい性格

父親である照光さんは滋賀に構えた会社での仕事で忙しく、照光さんは家族をあまり構っていられなかった。週日はお母さんと留美さんと妹の3人だけになり週末だけ父親の照光さんが帰宅してまた月曜日の朝に出掛けて行くという生活


失踪当日(平成7年、3/26、日曜日)朝、父親が「留美ちゃん犬の散歩に行ったら」と促し、留美さんは犬を連れて出て行ったが5分10分してすぐに帰ってきて2階へ上がっていった。しかしまたすぐに2階から降りてきて外出した。玄関がパタンと閉まる音を耳にしたのでそれと分かった。

植村留美さんのご両親
植村夫妻

「あぁ(留美は)外に行ったんやなあ、何しに行ったんかなあ、ぐらい(の感覚)でまた寝たんです。その時ね、どこに行くの?とか声をかけとけばよかったんですけどね…そのままでしたね…最後です、それが。」


ただならぬ事態であると感じたのは昼頃か?

「そうです。ただその前から探し始めてはいた。」近所の人、妹、会社の従業員などで北の難波駅あたりを探した。大阪には親戚が多い。会社の従業員など十人が近所の公民館に寝泊りさせてもらえた。1週間ぐらい。


失踪当日の夕方になって(最寄りの)黒山警察署に行く。


北による拉致のことなど全く頭になかったが(めぐみさんの件が露見した前後に)区議会議員が北による拉致ではないかと言って来られたので、その関連を疑うようになった。


失踪直後は無言電話がよくあった。北による拉致など全く頭になかったのでその関連を疑わず、それら無言電話は当時社員であったヨシムラという青年が仕事上人間関係上何かしら不義理をして会社を出て行っていたのでその後ろめたさから電話をしてきていたのだと思っていた

何年か後に四天王寺(警察署のことか?)で行方不明捜索をしたとき見知らぬ若い男の声で「あの失踪事件はどうなったのか」と問い合わせてきた。行方不明探しのビラに自宅電話番号を書いていたのでそれを見て電話をしてきたのだろう。「未だ行方不明のままだけどお兄ちゃんなんで電話くれたん」と尋ねたら電話がプツリと切れた。怪しい電話であった。


捜索願に訪れた警察署は黒山警察署、西成警察署、大国町の警察署だが西成と大国町は暴力団対策の部署だったこともありぞんざいな態度でそんな行方不明ぐらいいくらでもあると相手にしてもらえなかった(*大阪の西成「にしなり」というところは東京の山谷と同じ所謂ドヤ街であり半ば宿無しさん達の集まるところ。とても風紀が悪い。)


当時23歳の留美さんは何の職業をしていたのか

留美さんは高校のときに女子校に通ったのだが、酷くいじめられて胸のあたりが痣だらけだったこともある。そんなことから人間恐怖症のようになり失踪当時は家事手伝いや滋賀県のお父さんの会社の手伝いを時々していたような状態だった。家に引っ込みがちだった。通った高校の名前は千代田高校(現在:大阪暁光高校)

植村照光さん
植村照光さん

「北にだけは拉致されていて欲しくないという気持ちがある。なぜならもしそうであれば出てこられないから、生きていられないから。なぜなら娘はとてもおとなしく出しゃばらないので(食うや食わずの北朝鮮国内の)生存競争に勝てないからだ」

自宅の最寄り駅の隣の駅が中本という場所にありと連合赤軍の本部があった。

自宅近くに山口建設という土建屋があり西成(ガラの悪いところ)の人間の寄せ場であった

留美がいつ帰ってくるかわからないから、去年まで大阪の自宅を手放さなかった

30年間何の手がかりも無く、したがって(犯人の)思い当たる節はない

帰国したあの5人は絶対何かしら知っているはず、誰かしらに会っているはずだ。喋って欲しい。喋られないように足かせされているのだろうけど腹を括って話してほしい


『30年の運動でつらかったことはあったか』

ずっと辛かった


『夫婦でどのように支え合ってきたか』

支え合っていたら泣くしかない。(そうならないために)働くしかない。ここに来たら、逆に寂しい(*1年前に大阪を退いて今の鹿児島県湧水町に戻ってきた。ご主人の生まれ故郷。)

植村光子さん
植村光子さん

大阪の家も人に譲って。もう二度と帰れないと思ったら娘を置いてきたような感覚ですよね。あそこしか帰るところがないでしょう、娘は。知ってるところがないし。それがこの頃はやっぱり悲しいですね。できたら、また私も大阪に帰りたいですね。(嗚咽)

人間は一生のうち、いろいろ問題はあるんやろうけど、それは、耐えていかなしゃぁないですな

仕事をしているときは、気が紛れてよかった。引退した今はすることがない、というのが辛い

荒木先生がいてくれはるのは本当に助かっている。


『留美さんに今一番言いたいことは何か』

…相手が北朝鮮ですもん。…ほかの国ならまだしも(中略)北朝鮮で生きて行くことは大変なことだと思う

(警察や政府は)家族が年を取って死んでいくのを待っている

母「横田さんとしては優秀な息子さんが跡をとっているが、うちは跡取りがいないので…死ぬまで(娘に)会えないのなら、(せめて)元気でいてくれと言うしかない。」

マスコミ取材は集会などでのぶら下がり以外はほとんどない。なぜなら植村留美は拉致かなぁ、くらいなので目撃証言がないのであまり注目されない。こんな人が何百人もいるんですからね

人権の感覚は日本と北朝鮮ではだいぶ違う。北は国のために死ねという感覚

先日木原官房長官に会いに行ったが調査会家族会はいつも同じ顔ぶれ。5人6人くらい。いつものメンバーですね

会議してもメンバーは決まっている。大阪からも(48人のリストが府警HPに上がっているのに)私一人だけ。

(調査会の家族会の人たちがあまり集会などに集まらないのは)生きているか生きていないかよりも、拉致されたのかどうかがはっきりしていないから。 おわり


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