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日本再生に武道の果たす役割

更新日:2018年7月25日

荒谷卓


『自国を防衛しなければならない国がそれを避けようとすることは不可解なことだ。世界でこのような不思議な態度をとる国は日本をおいて他にない。

日本は真剣に自国の防衛に指導的役割を演ずる覚悟でないといけない。しかし、(無責任な米国依存)それが今の日本の状態だ。今のままでいることはできない。』


これは、前米国防副次官リチャード・ロレンス氏がオバマ大統領に提出したレポートについてのインタビュー記事(中央公論1月号)の抜粋である。

この内容を掘り下げる前に、少し日本の現状を眺めてみる。地方の衰退、社会保障の後退、貧富差の拡大、就職難等、今、日本でおきているほぼ全ての問題は、グローバル経済・金融システムの激動、安全保障環境の変化等国際政治の動向に対する日本の貧弱な政治的対応能力によって生じていることは説明を要するまい。

それは、経済のみに偏重した日本の政治の限界である。しかも、国際政治の視点で見れば、その経済成長は対ソ戦略の道具として米国の保護下に為しえたのであって、日本が独自の国際的政治手腕により成し遂げたものではないとの見方もある。以下の記事がそうした米国の見方を象徴している。


『米国は、戦時下の統制を存続させ、(日本の)巨大な官僚の権力を肥大化させ、経済成長を加速させることが重要だと考えた。』

(W・ラフィーバー コーネル大学歴史学教授)


資本主義開発国家モデル、より辛辣にいえば「日本株式会社」と称されるようになる政府の行政指導による輸出主導型経済は、実はアメリカの指令が作り出した落し子だ。

『冷戦が終わり、そして日本は消滅した』というフレーズが今日の状況をより的確に伝えている。

もはや日本企業が脅威として恐れられているわけでもないし、日本式マネージメントは嘲笑の対象にされている。脅威でなくなった日本がこうも退屈で凡庸な存在と化したのはいかにも残念だ。

(N・クリストフ NYタイムズ東京支局長)


例えば、日本の外貨準備高は、最近中国に追い越されるまでは長らく世界一の座を確保してきた。日本の国民総生産の二十パーセント規模の異常なる外貨準備はほとんどがドル建てで、国民資産の円を売って米ドルを買い、さらにそのドルで不良債券同様の米国債をいまだに購入している。最近の為替相場の変動や米国債の評価などを考えれば年間数十兆円の損失を生み出しているという。

同様にドル建ての外貨準備を急速に増加した中国は、対米政策上、軍事費に予算を投入するより米ドル・米国債を抱えたほうが米国への脅しとしてははるかに有効だという政治判断で動いている。いまや、中国が抱えるドルと米国債は、核兵器より確実に米国を破壊しうる状況であるがゆえに、米国は中国を最大の政治パートナーとみなしている。

これとは対照的に、ほぼ同じ額の米ドル・米国債を保有する日本は、対米政治力は皆無である。なぜなら、安全保障を完全に米国依存している日本は、経済力を政治力としては行使できず、ただただ、経済・金融面でも米国の要請(ほぼ命令)に従わざるを得ないのである。

一九八〇年代から米国の日本経済に対する政治圧力が高まったとき「政治が経済活動に関与するのはおかしい」などと愚かな発言していた日本の経済人がいた。およそ、国際的活動は、金融・経済、安全保障など全てにわたり、政治的でないものなど存在しない。国際社会には、確立され安定した公知の法、公知の公平な裁判官、正しい判決を適切に執行する権力が欠けている。国の主権であり財産である領土保全も、自分で守らないのなら、取られてもしょうがないというのが、今もなお国際社会の基本ルールだ。つまり、自国の安全を完全に他国に依存しているような、自立していない国家が、国際社会で政治力を発揚できるはずもない。

戦後一貫して、日本は、独立国家として自立するという意志がないまま、米国の保護と支援に期待して、安全保障、経済、外交など全ての国際政治をいわゆる日米関係にゆだね、日米関係を良好に保つことが日本にとっての国際政治と化してきた。ところが、米国側から見れば、冷戦間の特別の状況では許されていた日本の国家的甘えの構造は、日本の戦略的意義が低下した今は全く受けいれられないということである。特に、安全保障にいたっては、口約束だけで実質的機能が全く整備されず「自国の安全保障は全て米国に丸投げで、自らの責任と努力を回避する日本の姿勢」が冒頭のロレンス氏の批判なのである。

それにもかかわらず、日本政府は、米国から蔑まれたまま過去の日米関係の幻を追いかけているが、当然その方向に日本の将来などない。

フォーリンアフェアーズ傑作選1922~1999「アメリカとアジアとの出会い(下)に記載された、オランダ人ジャーナリスト、カレル・ウォルファレンは次のように指摘する。


『戦後の復興期、(日本は)中央集権化された強力な政治支配をほとんど必要としなかった。この時期を過ぎると、限りなき経済発展こそ日本の最優先課題でなくてはならないという政治的仮説が出現した。これ以降、経済至上主義という方針を変更するような重要な政治決定は一度も行われていない。別の言い方をすれば、そのような重大な決定を下せる政治メカニズムが存在しないのだ。』

『日本は国防面でアメリカに完全に依存しているだけでなく、外交面でも難しい国際関係の処理を全てアメリカに依存している。これまで40年に渡ってアメリカ人の指導、援助ならびに保護を受けてきた経緯を考えれば、日本は大人になり自らにふさわしい役割を国際社会で果たすべき義務がある。』


このままでは、江沢民が「今世紀中に亡くなる国(日本)」といった予言は的中するだろう。


さて、同じように、列国の植民地化の波に飲み込まれて亡国の運命にさらされた江戸末期を見てみよう。安政3年(1856)、米国の総領事ハリスが下田に赴任して日米交渉をしたときの様子を、勝海舟は次のように記している。


ハリスの主張ははなはだ強硬であった。交渉に当たる幕府は何とかしてハリスの要求を押し返そうとするのだが、彼は少しも聞き入れなかった。無理も無い。彼が天下の公議と必然の理を持って主張してくるのに対し、幕府側は、日本国内の小節に立って対応しているのだ。だから一々言い負かされ、先方の言うとおりになってしまうのである。これがアメリカの軽蔑を受ける第一歩であった。幕府は、泰平時の古い考えに立脚して何が何でも拒むのだが、相手が威力で圧倒してくるとたちまち屈してしまうのだ。許されてならぬものが許される。こういう事態を見せるのだから、愚弄されないわけが無いのである。


これは、まさに今の日本と同じではないか。岡田外相は日米交渉で「与党の中には社民党が入っているので、意見調整が難しいということを理解してほしい」といったという。政権維持のため自らが選択した政権構造の内幕を米国に説明したところでなんになるというのだろうか。

しかし、これは、自民党政権でも同じこと。このような政治家だらけの戦後体制の中で、対等なる日米関係構築など期待などできようはずが無い。さらに勝海舟の時評(慶応2年、1886年)を紹介する。


外国人と手を結ぼうとしているものがあるという話が真実であるのか、ただのうわさなのか、私には知らぬ。しかし、幕府はフランスに資金借款を行う秘策があるわけだが、それに先立って長州藩はイギリスから30数万金を借りたといわれる。また、イギリスの公使は鹿児島や宇和島を訪問して深い交渉を持ったといわれる。もしこの噂が真実であるなら、天下の大乱、万民が塗炭の苦しみに陥ることになる、悲嘆に涙して私が主張しなければならないのもここにある。災いとは天から降ってこない。小人が起こすのだ。幕府が堂々たる姿勢に立ち戻りさえすれば、どのような奸邪のたくらみも破産し、有益なものが残るであろう。幕政につくものに「私」があれば人々はもっとはなはだしい「大私」で応じてくる。たとえ人々に「私」があっても、こちらが「正」を押し出し公明正大を保つのであれば、これに感服してこない日本人はいないはずだ。至誠、それは神のごときものである。



片や米国の力を頼み、方や中国の力を頼みにする政治家。自らの利権に国や国民を省みない商人たち。現状は維新を必然とした幕末と同じではないか。

今、人気の坂本竜馬は、姉乙女への書簡で述べた内容以下のものである。


あきれ果てたることは、その戦ひたる船を江戸で修復いたし、また長州で戦ひ候は、これみな姦吏の夷人に内通いたし候ものにて候。右の姦吏などは、よほど勢もこれあり大勢にて候へども、竜馬、同志を募り、朝廷より先ず神州を保つとの大本を乞て、それより江戸の同志と心を合はせ、右申すところの姦吏を一時に軍をいたし打殺し、日本を今一度洗濯致したきの心願にて候


日本改革の大義を天皇からいただき、当時の志ある幕臣大名等の有力者の連携を図り、新勢力をもって日本改革をしようという。いわゆる公武合体論、今で言う新党形成のようなものだ。しかし、これは失敗に終わる。既存権力を当てにしたのでは、維新推進力としては不十分だったのである。

これに対して維新を断行した西郷はどうか。


正しい道を踏み、国を賭けて、倒れてもやるという精神が無いと外国との交際はこれを全うすることは出来ない。外国の強大なことに萎縮し、ただ円満にことを納める事を主として、自国の真意を曲げてまで、外国の言うままに従う事は、軽蔑を受け、親しい交わりをするつもりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう。


国が外国からはずかしめを受けるような事があったら、たとえ国が倒れようとも、正しい道を踏んで道義を尽くすのは政府の努めである。しかるに、実際に血の出ることに臨むと頭を一カ所に集め、ただ目の前のきやすめだけを謀るばかりである。戦の一字を恐れ、政府の任務をおとすような事があったら、商法支配所、と言うようなもので政府ではないというべきである。


道義を守り、恥を知る心を失うようなことがあれば国家を維持することは決して出来ない。西洋各国でも皆同じである。上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれに習うようになって、人の心は皆財欲にはしり、卑しくケチな心が日に日に増し、道義を守り、恥を知る心を失って親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するのである。このようになったら何をもって国を維持することが出来ようか。徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世の中を治めたが、今は昔の戦国時代の武士よりもなお一層勇猛心を奮い起さなければ、世界のあらゆる国々と対峙することは出来無いであろう。普、仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三ケ月の食糧が在ったにもかかわらず降伏したのは、余り金銭のソロバン勘定に詳しかったが為であるといって笑われた。


維新のためには、下手なそろばん勘定などせず、ただただ正道を全うし、そのため既存の利益や権利など全てなくしても構わないとする西郷のような精神が必要だったのである。

西郷は、廃藩置県を断行するに当たって、諸般の反乱を憂慮する大久保や木戸に『心配無用。自分が一身に引き受ける』といって安心させ、詔勅を発する明治天皇から最悪の事態が起きた場合の処置を尋ねられると『恐れながら吉之助が降りますれば』と一言きっぱりと申し上げ宸襟を安じ奉るようお応えしたと言う。先の大西郷遺訓では、次のようなことも記してある。


正しい道を生きてゆく者は、国中の人が寄って、たかって、悪く言われるような事があっても、決して不満を言わず、また、国中の人がこぞって褒めても、決して自分に満足しないのは、自分を深く信じているからである。


西郷からは、一人の力で天下を動かさんとする自覚と気概がうかがえる。この自覚と気概こそ、日本の武人が建国以来、二千年以上に渡り継承してきた大丈夫の心である。さかのぼれば、万葉集では、大伴家持卿が次のように歌を詠んでいる。


海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生す屍大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ (との大伴家家訓を身に体して)

梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 

大王の 御門の守り 我をおきて また人はあらじ


また、南北朝時代、太平記に記された楠正成の後醍醐天皇に対する奏上は最も端的である。


北条高時の大逆天ちゅういたすに仔細なし。天下草創の業は武略と知謀の二つ。勢力では勝つこと得がたいが、謀ならばおそるに足らず、合戦の習いにて、一端の勝負のみをお気に召されるな。正成一人生きて在りと聞こし召され候はば聖運ついに開かるべしと思召され候へ


楠正成、西郷隆盛の精神を継承するのならば、既存の政党政治家、新たな政党などに期待などするものではあるまい。今の日本を改革するためには、戦後の仕組みそのものを根底から破壊し、改めて日本のアイデンティティたりうる神武創業の精神を現代に生かす気概の者が必要とされる時代に突入したのだ。

勝海舟のように、時の政権内にあってその非を認め権限を天皇に奉還する決断と実行力、改革の核心以外の余計なものを全て捨てて日本の再建を断行する西郷のごとき決断と実行力。日本が今一度自立した独立国家建設を成し遂げるためには、現在の武道の鍛錬はかくの如き決断力と実行力の養成に着目すべきだろう。




補記


極端な言い方をすれば、戦後日本がなした政治的意思決定は、2度しかないと思われる。それは、米国による占領体制後の冷戦下、米国の保護下に経済優先で戦後復興の進路を決めた吉田首相と、冷戦後、引き続き米国の戦略枠組みの中で経済成長を図りたいという意志を表明した小泉首相だけではないだろうか。

吉田首相の場合、GHQの占領政策により日本の国力は全て削ぎ落とされ、冷戦という厳しい国際環境の中で米ソ間の戦略的要域に位置する日本としては、独立を自力で為しえないという認識の下、苦渋の選択としての米国への依存であったとも解しうる。これは、「敗戦日本としては自力をもってわが独立を守り得る国力の回復するまで、あるいは日本地域における国際の平和と安全とが国際連合の措置もしくはその他集団安全保障制度によって確保される日がくるまで、米国軍の駐在を求めざるを得ないのであります。」という、吉田首相のサンフランシスコ平和会議での発言(昭和26年)から読み取れる。この、政治決断によって、昭和27(1952)年4月28日、わが国は米国との間で旧日米安保条約を締結することになる。一言付け足すが、この時点で既に現日本国憲法が存在していたわけで、いわゆる「平和憲法で日本が守られる」などという政治判断は現実には存在していない。それが可能であれば、世界中の国が憲法で戦争放棄をうたうはずだが、そのような動きは全くないということからも明らかである。国内法の規定で、国際関係を律することができるはずがないのである。

この後の日米安保体制の経緯については、少し細かく確認しておく必要がある。1951(昭和26)年、アメリカは相互安全保障法(MSA)を制定し、それまでの種々の対外援助をこの法律の下に一本化し、すべて反共陣営構築のための軍事援助中心にすることにした。つまり、米国からの経済、金融、農業などの支援を受けるためには、米国と相互防衛協定を結び、反共産主義陣営のメンバーになることを条件としたのである。

かねてより、経済復興に最大の関心を置いていた日本政府は、米側との交渉の末、昭和53年6月にMSA交渉をアメリカに申し入れる。このときの日本側の態度は、以下の池田・ロバートソン会談に象徴される。

相互防衛協定では、相互に自国防衛の努力をするというのが前提となる。しかし、当時日本には、憲法上の理由で自衛のための軍事力は保持せず、国内治安を専門とする11万人の警察予備隊のみを保有していた。しかし、とにもかくにも経済支援を受けたい日本側は、アメリカ側の日本の防衛力に関する提案を確認することとなる。『陸上戦力は、アメリカサイズで10個師団(32.5万人)を保持すること』これが、アメリカ側の要請であった。ところが、もともと経済支援にのみ関心があり、自らの防衛努力には消極的であった日本側は、『わが国は憲法上の制約、教育、財政状況などにつき、米国の要請をそのまま受け入れられない。アメリカの師団編成の中の、補給・整備・輸送等後方部隊は、国土防衛戦では民間力の使用が可能なことから、その分を削ると10師団が18万でできる。後は、今後の努力でまかなうこととする。』と説明して了承させ、米側の要請の半額の自衛隊、つまり軍隊としては機能しない武装組織ができたわけである。

これが前提となり、昭和60年、現在の日米安保条約を締結することになる。併せて、この安保条約の改定で、米国に日本防衛義務を課した(第5条「共同防衛」)ということになっている。これは、旧安保条約を策定する段階で、吉田首相がダレスに、米国の日本防衛義務を要請したが「自衛の能力なき国と相互に安全保障の取り決めを為しえるはずがない」と一蹴された経緯がある。つまり、今回の条約改定に当たっては、日米間では「日本は自衛の能力を保有する国家」として認識されたということが前提になっている。

しかし、実態は米国の経済支援がほしいために、相互防衛協定上の物的証拠である偽軍隊を作って、安全保障機能は日米安保条約により、完全に米国に依存する体制を構築することとなった。ちなみに、当時米国に説明した「自衛隊の後方支援能力として民間の整備、補給、輸送能力を活用できる仕組み」など、今でも全く存在しない。

さらに有事法制も整備しなかった。自衛隊を作るために自衛隊法は作ったが、有事法制がないと、自衛隊はもとより日本の国として防衛行動は取れない。作っていなかったというのは、自衛隊を運用することも自ら国を守るという意志も全くなかったということである。昭和52年(1977年)、来栖弘臣統合幕僚会議議長が、「敵が攻めてきたらどうするのか」と聞かれて、「有事法制が無いのだから、現場の指揮官の独自の判断でやるしかない」と発言をしてクビになった。それで、はじめて日本には有事法制がなく、自衛隊は実際には行動する仕組みがないことが公に報道された。福田赳夫首相(当時)があわてて有事法制の検討を命じたと表明するが、その後30年近くも有事法制が政治課題として取り上げられなかったことからも、「検討はしろ。答えは出すな。」という指示ではなかったかと疑われる。


冷戦後、新たな国際秩序が模索される中、日本は必然的に政治的決断が必要となった。冷戦間は、米国の対ソ戦略上、日本は、ソビエトの東側から米軍戦力の投入が可能な基地を提供し、米国の経済力を底上げして共産圏経済に対する競争力を向上させる役割を果たすことで十分な役割を果たした。「真に友好的な日本と名目上だけは敵対関係にある中国」は、米国の極東の戦略環境として望ましいものであった。しかし、ソビエトの崩壊と供に、米国の戦略に占める日本の意義は再定義が必要となった。同時に、日米関係を維持してさえおけば、複雑な国際政治に主体的に取り組まなくてもすむという状況は消滅した。たとえ、日米安保を継続したとしても、独自に国際政治の中で自立して生きていく覚悟をしなくてはならなかった。

冷戦後の国際社会で、日本が自立した政治力を持つことを意図すれば、それを可能にするのに十分な経済力を有していた。しかし、1989年から始まった日米構造協議の中で、日本は主体性ある日本の経済システムの構築を放棄して、米国の要請を受け入れた。その流れの中で、2006年、小泉首相が日米投資イニシアティブを結び、米国のグローバル資本主義システムの中で日本は生きていくことを決定した。

一方、安全保障は、米国が2002年、軍の変革と世界的戦略見直しを国家安全保障戦略で示し、日米間でも2002年12月から、日米安保協議が開催された。しかし、日本側にはイニシアティブを取るものがまったくないまま、相変わらず米側の要請を値切りながら、しかし、基本的に米国側の要求に沿って協議が進み、2005年「日米同盟:未来のための変革と再編」という共同文書を政府間で取りまとめた。これが指針となって、現在話題になっている普天間基地機能の移設などが含まれる「再編実施のための日米のロードマップ」が最終的(2006年)に小泉内閣の下に取りまとめられる。

これら、経済及び安全保障の日米協議の特徴は、戦後一貫して、独立国家として自立するという意志がないまま、米国の保護と支援に期待して、米側の指示通り協定を結んでいる。

しかし、いまや、米国の戦略の中で、日本が決定的な重要性を占める役割はない。現在の東アジアのビジョンは「友好的な中国と敵意を持たない日本」というところだろう。

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