透明な心

最終更新: 2018年7月28日


伊藤祐靖


目を覚ますと、日出直後の空気は、まだひんやりとして夜の匂いが残っていた。雲がほとんどない空は、その色を薄明時の淡い青から太陽の上がるスピードに合わせて際限なく濃い青へと変えていた。子供の頃、筑波で見ていた空もこの色だった。空気が澄んでいる。

母港を横須賀とする艦の砲術長をしていた時、横須賀沖から東京方面を見ると、いつも黒い“もや”が都心部を覆っていた。あの黒い空気の中で人々は生きている。そこに住む人は、自分が黒い空気の中にいるとは感じずに、黒い空気越しに見える色が本当の色だと思っている。真っ白いものを灰色に汚れたものだと見ている。

俺は、いつの間にか、澄んでいない空気越しに見上げる空の色を普通だと思うようになっている。心が黒くなりかけている。心の中を掃除しないと、この島では生きていけない。自分の心の黒さを棚に上げ、周りが黒いと感じてしまう者は、反省ができない。反省しない者を、生かしておくほどここの自然は甘くない。人間だって「まさか、そんなことはしてこないだろう」と“たか”をくくっている者も、だからと言って「こいつも俺に悪意を持っているに違いない」と黒い心で疑っている者も受け入れはしない。警戒とは、疑うことではなく、安心しようとするのでもなく、透明な心でそのものを正しく見極めることである。

すっきりと澄んだ涼しい風の中、周囲を歩いてみた。舗装されていない狭い路地を掃除する者、朝食の準備をする者、昨日のインチキ3兄弟の住む街とは思えぬ程、みんな真面目で勤勉そうである。

ふと気がつくと、目に入るのは全員女性であることに気付いた。これも赤道の近くに住む人の特徴かもしれない。男が働かない代わりに、女性はみんな働き者だ。

赤ん坊をあやしながら、朝食の準備をする20代後半に見える女性に話しかけてみた。

「この街にダイビングショップは、ありますか?」

「桟橋にあったはず」

「桟橋?」

「タリコット島へのボートが出る桟橋よ」

「どうやっていけばいい?」

「○○行きのジープ(乗り合いバス)に乗りなさい」

言われたジープ(乗り合いバス)に乗ること約10分、目的地らしい風景が見えてきた。壁を2回叩いてジープから降りると、子ヤギ、子豚を生きたまま売っている傍らで、賭けダーツをしていた。子豚の強烈な鳴き声が響く市場を抜けるとその桟橋はあった。そして、桟橋の近くに小奇麗な平屋のダイビングショップがあった。

「あの、マネージャーはいる?」

「私です」

40歳前後の男がニコニコ近づいてきた。私も警戒されないように、新人スチュワーデスのような、固い無理した笑顔を作ったが、口からでたせりふは高圧的になってしまった。

「私は、日本から来た者で海軍特殊部隊にいた者です。金は要らないから、潜る仕事はありませんか? 自分の技量を落とさないために潜りたいだけなんです。土地に慣れればガイドもするし、客の安全監視もするし、従業員のトレーニングだってしてあげる。だから、道具を使わせてくれ。ボートで沖に出るときにはそれに乗せてくれ」

「はい、どうぞ」

(えっ、本当にいいの??)

「準備は、できてますか?」

「準備? 何の?」

「今から私と潜りに行きましょう」

「ああ、道具は貸してもらえるんですね」

「はい」

「OKです」


その桟橋から15分くらいの海でマネージャーと潜った。当然こちらの技量に見ているに違いないが、彼は、何かしてみろというわけでもなく、質問をするわけでもなく、約1時間一緒に潜った。

ダイブショップに戻ると

「明日、9時にここに来れますか?」

「はい」

「そこの女性が、サマール島にある支店の責任者です。名前はラレイン(仮名)、22歳です。明日ここに来て、彼女とその支店に行ってください。そこにいる2名の若いダイバーを鍛えて欲しいんです。週末は、客が多いのでガイドをして貰うかもしれません」

「わかりました」

若い責任者は、真っ黒い顔にやたら白目が目立つ女性だった。軽い会釈の後、マネージャーが現地語で私のことを説明する間、小さく何度もうなずきながら、友好的でも対立的でもない視線で私を見ていた。説明が終わると、努力だけが伺える、ぎこちない笑顔で「明日9時に」と言って店の奥へと消えた。

あっけないくらい簡単に、潜れる環境は作れたが、このまま、すんなり行くわけがない。でも、とりあえず、今日も潜ったし、明日も潜れる。あとは、射撃と拠点(住む場所)を作ることだ……。

昨日のような、明日中に何かに出くわす予感はなかった。でも、きっかけという何かが向こうからやってくることはわかっていたし、それを見逃さない自信はあった。

そんなことより、さっきの友好的でも対立的でもない視線に、疑うわけでも安心しているわけでもない透明な心を感じた。あれなんだ。あれが必要なんだ。俺は、さっさと心の掃除を終わらせないと自然か人間に消されてしまう。この身を護ってくれるのは、銃でも刃物でも拳でもない、それを使うタイミングを見極められる透明な心である。透明な心は、すべてを晒すだけで手に入る。簡単にできそうだが、できない。晒せない心が、隠し事を作り、それは「うそ」と、それを突き通そうとする心を産む。それは心を黒く濁らせ、濁った心越しに見る景色は、白いものも灰色、もしくは黒く映す。そして、あらゆる人への猜疑心となり、信じる心も、愛する心も塗り潰していく。

俺は、悪いことも、いけないことも、やばいこともたくさんしてきた。山ほど反省したし、後悔もした。しつくせなくて、今でもまだ、している。今更、格好つけたってはじまんない。まずは、実像を晒すことだ。自分を実像より小さく見せてみよう。虚像癖がついているからそれくらいでちょうどいいんだろう。これが俺の心の掃除だ。今更だけど……。


42歳にして初めて、人間として当たり前のことを強い決意の中やろうとしていた。

0回の閲覧

予備役ブルーリボンの会
住所 : 〒112-0004 東京都文京区後楽2-3-8 第6松屋ビル301号 荒木事務所気付 携帯電話 090-8517-9601
Copyright (C) 2008-2017 予備役ブルーリボンの会. All Rights Reserved.

  • Black Facebook Icon
  • Black Twitter Icon
  • Black LinkedIn Icon