「お世話になりました。行ってきます」北朝鮮工作母船追跡事案(第1話)

最終更新: 2018年7月28日

伊藤祐靖


 1999年3月22日。この日は月曜だったが、春分の日の振替休日で休みだった。舞鶴の市街地からは雪がようやく姿を消し、時折春の匂いを感じさせる時期になっていた。昨晩、雪まじりの雨を降らせた前線が通過したが、九州付近にある高気圧からの北西の風がまだ強かった。明日には、高気圧圏内に入る。やっと、冬の間日本海を覆い続けた鉛色の雲が消え、青い空を見ることができる。


 イージス艦「みょうこう」の航海長だった私は、母港である舞鶴の本屋にいた。携帯が鳴り、発信者番号を見ると艦からだった。いい話のわけはないが、出ないわけにもいかない。

「はい」

「航海長ですか、当直士官です。緊急出港です。すぐにお帰りください」

「了」(了解の意)

 舞鶴市内から艦に帰るためタクシーに乗った。基地に近づくにつれ、血相を変えて走っている「みょうこう」の乗組員が目に付き始め、事情を知らないタクシーの運転手もそれに刺激されたのか、運転が荒くなっていった。舞鶴基地では国道から艦が丸見えである。停泊中の艦に旗りゅう信号が揚がることは、滅多にない。外舷色(灰色)のマストには、警急呼集が下令されていることを意味するカラフルな旗がはためき、冬の日本海独特のどんよりとした空に、ピリッとした緊張感を走らせていた。


 艦に帰り、士官室へ直行したが艦長が見当たらず、すぐに艦長室へ上がった。2回ノックの後、 

「航海長入ります」と入室。艦長に正対し10度の敬礼の後に申告した。

「ただ今戻りました」

艦長は、何故かのんびりした表情でソファーに座り、応接セットの机の上からバスケットに山盛りになっているキャンディーを取るところであった。

早く結論だけを引き出して作業に入りたい私は、少し焦っているふりをしながら質問をした。

「行き先はどこでしょうか?」

「それは、まだ言えない」

「えっ、言えない?」

「そうだ、まだ言えない」

「言えないって、それじゃ、博奕かわっても、いきなり、面舵だか取舵だか、わからんってことですか」

「博奕」とは博打岬、「かわっても」とは「通過しても」を意味する船乗り用語である。

「もやいを離したら、航海長にだけ言う」

「もやいを離す」とは、停泊状態から航海状態へ移行するということであり、艦は目的地に向かうことになる。その時になって言われても……。『盗人を見て縄をなう』どころの話じゃない。


 30代前半にして人間的に全く成熟していなかった私は、節操のない思いがたくさん頭をよぎった。

「何言ってんだ、このおっさん、航海長に目的地を言わないでどうするんだ、バカ」

「出港してすぐの狭水道を航行している最中、チャートに航路を引けって言うのか?」

「外海へ出る前の漁船等が輻輳する危険な海域を誰に操艦させる気だよ?」

「あの海域をいきなり操艦できるなんて、船務長しかいないだろ。その間、誰が船務長の仕事をするっつんだ?」


「でも……。でも、艦長はそんなことわかり切っている」

「それでも『言えない』って、何が起きてるんだ、そんなにやばいのか」

「何を見られるんだろう、テポドンの次は何だ?」

不謹慎ながら、ドキドキというよりはワクワクに近い感覚だった。


舷門(艦の玄関)に乗員の帰艦状況を確認しに行った。

「出港が可能になる人員は、あと10分で帰艦します」

先任伍長が力強く言ったが、私はかなり憂鬱であった。先任伍長とは、下士官の最先任者である。

実は、幹部の帰艦状況に問題があった。なんと、副長が帰ってきていない。この艦のナンバー2で、艦長の女房役の副長がいない。

「こんなのあり?」 

「誰が副長の役をするんだ?」

「これも船務長しかいない」

「まあ、あの二人はクラスだから、文句はないだろうけど」。クラスとは、赤レンガ(幹部候補生学校)の同期生のことである。


 その証拠に、一番言いづらい副長の未帰艦を、船務長が艦長に報告した。罵詈雑言が船務長に降っていた。本来、当直士官が無機質に報告するべき事項だが、船務長は、興奮して怒鳴る艦長を相手に、かばっていることを悟られないように冷静に説明していた。

 さすがクラスだな~、副長の不在を一人で背負おうとしている。当時ケプガン(海軍用語でCaptain of Gun Roomがなまったものであり、現在は尉官の最先任士官を意味する)であった私にとって、副長も船務長も私生活においても可愛がってくれる兄貴分だった。しかし正直言えば、副長の仕事が自分に回ってくるのを面倒だと思っていた。副長をかばう船務長の姿を見て、何かがスッと晴れたが、同時に少し自己嫌悪にもなった。


「艦長、出港可能です、出港準備にかかります」

「了解、航海長、艦長室に来い」

「はい」

私は、艦長の後に続き艦長室に入った。

「行き先は、富山湾だ」

「富山湾?」

なんだよ、領海内じゃん、つまんね~の。

「任務は何ですか?」

「まだ、言えん」

「じゃあ、ETA(到着予定時刻)は、何時ですか?」

「ASAP(可及的速やかに)だ」

「この風じゃ、2戦速(21Kt)が限界かもしれません」

「だろうな」

「航路を引きます」


「準備でき次第出港する。航海当番配置につけ」

艦内号令が響いた。

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